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仏教

仏教とは

仏教とは

仏教は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ)を開祖とする宗教である。(前5世紀頃)
仏陀(目覚めた人)の説いた教えである。

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいている。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。
仏像や仏閣などは仏教が伝来した国、そして日本でも数多く見られるが、政治的な目的で民衆に信仰を分かりやすくする目的で作られたとされる。開祖の釈迦の思想には偶像崇拝の概念は無かった。
信者数:合計 約3億7000万人
:大乗仏教 約2.1億人
:上座部仏教 約1、3億人
:チベット仏教 約3000万人

成立時期:紀元前5世紀
創始者:インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ)
聖典:仏教の経典35歳~80歳(45年間の説法)

仏教の成立

仏教は、前5世紀頃、ガウタマ=シッダールタが悟りを開いてブッダとなり、ガンジス川中流のマガダの地でその教えを人々に説いたことに始まり、次第にクシャトリヤやヴァイシャ層に広がっていった。その教えを信じた人々が出家し、サンガといわれる仏教教団をつくり、または在家信者も増えていった。ブッダの死後、インド各地に広がり、特に前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王の保護のもとで全インドに広がった。
ブッダは、バラモン教の聖典ヴェーダの権威や儀式を認めず、またヴァルナ制度(カースト制)も否定した。そのような儀礼や身分にとらわれない、自己の解放を目指したといえる。

輪廻転生・六道・仏教と神

仏教においては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされている。
部派では(五道)
天・人・餓鬼・畜生・地獄
大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道(六道に輪廻)
天・人・餓鬼・修羅・畜生・地獄
生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

因果論

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本的考え方にすえている。
生命の行為・行動(体、言葉、心でなす三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める。また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、あらゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言う。
輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。

四諦

迷いの現実と悟りにいたる方法の二方向にわたって、因と果とを明らかにした四つの真理のこと。迷いの因果をあらわしたのが、苦諦(悪果)と集諦(悪因)。悟りの因果をあらわしたのが、滅諦と道諦

八正道

仏教で説く実践の徳目。生存は苦であり,その苦の原因は妄執(悟りきれず、心の迷いによってあくまで離さないでいる執念)によって起るのであるから,妄執を完全に断ち切れば完全な悟りを得ることができると考え,その状態に到達するための修道法として説かれた8種の正しい実践をいう。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定

諸行無常

無常も空も実相(あるがまま)の側面です。
無常とは常なるものは無いということです。この世界の全ては生成・変化、消滅を繰り返し、ある一定の状態が未来永劫保たれ続けるものは無いという教えです。若さも健康も、命も肉体も、地位も名誉も、財産も所有物も、幸福も不幸も、自分の心や他者の心も、親子や恋人や親友などの人間関係も(例えば生涯の親友であっても、いつかは死別によって関係が変化するので)、全ては変化していく。

諸法無我

何故、無常かと言いますと空(性)だからです。空性(くうしょう)とは無自性(むじしょう)のことで、あらゆる存在は単体では実体と言えるようなものは無く、全ては相依性縁起(二つ以上のものが相依って、あるいは相互依存しつつ、または相関関係上に)で成立しているということです。

無自性

あくまでも例えですが(実際はもっと多くの要素が複雑に絡み合っているとは思います)、若さは栄養と代謝、健康は肉体と環境、地位や名誉は個人と社会、財産や所有物は個人と国、幸福や不幸は出来事や境遇とそれを受け止める当人の心によって成り立ちます。無常なる二つ以上のものが相依って成立しているので単体には実体が無く、ある一定の状態が維持されるものは無いということになり、一切は空であるから無常であり、無常であるから空であるということになります。

諸法実相

釈尊は、これが世界の実相(あるがままの真実の姿)であることを達観され、空なるものに実体を求めたり、無常なるものに常住(変わらないもの)を願うところに苦が生じるということを説かれました

アートマン・ブラフマン

ブラフマン:宇宙を支配する原理
アートマン:個体の生命原理・霊魂

三蔵

律蔵・僧伽(僧団)規則・道徳・生活様相などをまとめたもの
経蔵・釈迦の説いたとされる教えをまとめたもの
論蔵・注釈、解釈などを集めたもの
結集によって仏典がまとめられた初期仏教・部派仏教の時代から、仏典はこの形でまとめられ、継承されてきており、上座部仏教の『パーリ仏典』では、現在でもその原型を留めている。

大蔵経(一切経)

中国における仏教経典の総集の呼称。

仏教徒が守るべき、自分を律する内面的な道徳規範。

僧侶のみに課される戒であり、僧侶を拘束する法律に等しい。これを破って罪を犯した場合は罰が科せられます。

仏教の歴史

インド 中国・朝鮮 日本
BC3000:インダス文明
BC1800:アーリア人侵入
BC1500:バラモン教(リグベーダ)
カースト制度
BC2070:
BC1600:殷(漢字の始まり)
BC1046:周
BC770:春秋時代
BC403:戦国時代
BC12000:縄文時代
BC563:釈迦牟尼仏誕生
BC483:釈迦牟尼仏入滅
BC:6世紀中頃:儒教の成立(孔子) BC300:弥生時代
BC660:神武天皇
BC477:第1回仏典結集
500人の高弟たちによる第1回仏典結集がされ、正しい教えを定めた。
BC377:第2回仏典結集(仏滅後100年)
上座部と大衆部に分裂(根本分裂)
BC244:第3回仏典結集(仏滅後200年)
BC268-232頃:アショーカ王在位期間(マウリヤ朝による仏教の保護)スリランカに仏教を布教した(南伝仏教)
BC100-100頃:大乗仏教興起
BC221:秦(始皇帝)
BC202:前漢
BC2:仏教伝来
AD50-200頃:初期大乗経典成立
AD100~300:第3代カニシカ王(クシャーナ朝による大乗仏教の保護)
AD25:後漢
AD220:三国時代
三国志・邪馬台国の卑弥呼,魏に使者
AD250:古墳時代
AD150~250:龍樹
AD350~409:鳩摩羅什 AD300~
(サンスクリット仏典の漢訳開始)
AD5世紀前半:パーリ語仏典成立
AD629:玄奘三蔵(西遊記)
AD7世紀:チベット仏教(大乗仏教を導入)
AD7~8世紀:密教経典成立
AD439:南北朝
(中国仏教の急速な発展)AD589:隋
(天台宗、浄土教、密教、禅宗の成立)
AD618:唐
AD907:五大十国
AD960:北宋
(禅宗、阿弥陀信仰が盛んになる)
AD538:仏教伝来
AD592:飛鳥時代
AD710:奈良時代
南都六宗
AD712:古事記
AD720:日本書紀
AD745:東大寺盧舎那仏像 建立(奈良の大仏)
AD794:平安時代
天台宗・真言宗
AD1203:インド仏教消滅  AD1271:元
AD1368:明
AD1616:清
AD1912:中華民国
AD1949:中華人民共和国
AD1160:平清盛
AD1185:鎌倉時代
AD1336:室町時代
AD1573:安土桃山時代
AD1603:江戸時代
AD1868:明治
AD1912:大正
AD1926:昭和
AD1989:平成

上座部仏教(小乗仏教)

上座部(小乗)は、出家主義をとり、禁欲と激しい修行をすすめる立場をとり、出家して修行を積むことのみが悟りをひらく道であるとします。このように修行を積んだ者だけが解脱にいたるという考えで、小さな乗り物の“小乗”とよばれました。
上座部仏教はこのように、僧侶と一般人が厳密に区別されています。ただ一般の信者も、功徳を積むことによって、現世を安穏に過ごし、来世も幸福な境遇に生まれることができると説きます。そのため、ひとびとは僧侶への布施を行ったり、日常の善行を行って功徳を積みます。

パーリ語教典

南伝の上座部仏教に伝わるパーリ語で書かれた仏典である。北伝の大乗仏教に伝わる漢語・チベット語の仏典と並ぶ三大仏典群の1つ。パーリ仏典は、紀元後に仏典のサンスクリット化や大乗仏教化が進む以前の、プラークリット(俗語)の形態を留めたまとまったテキストとしては唯一現存するものであり、
パーリ語経典は大きく
1.律蔵……僧侶、出家者の守るべき戒律の集成
2.経蔵……ブッダやその弟子たちの言行など
3.論蔵……経や律の解説、教義
の3部分にわかれ、これを総称して「三蔵」「パーリ語三蔵」といいます。

大乗仏教

BC2世紀はじめ—大乗仏教は釈尊の没後300年ほどたって生まれました。釈尊の教えを受け継ぐ教団が次第に学問仏教化をしたために、このようなあり方をを批判して、多くの人を救おうと考えた僧侶たちが大乗仏教の教団をつくりました。“大乗”とは、“みずから修行し、他者とも教えを共有しようとする教え”で、大きな乗り物すなわち“大乗”から来ました。
BC3世紀のガンダーラ(ウマリア朝)で発展し、1世紀~3世紀、今のアフガニスタンのクシャナ朝でも保護のもと、発展しました。そこからシルクロード経由で、中国(長安)、朝鮮半島、日本というように伝わりました。

龍樹

インドのバラモン(婆羅門)の学問をすべて習得したのち仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教とを学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の空をもって大乗仏教の地位を確立した大論師。
龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、般若経の「空」の解釈により深め体系化しました。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあり、龍樹は[八宗の祖]とたたえられます。
空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化・実体化すると矛盾に陥ることを示して論破しています。すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明しています。

鳩摩羅什

シルクロードを通って西域から中国に渡り、仏教を伝えた渡来僧。その名クマーラジーヴァを漢訳して鳩摩羅什と表記する。タリム盆地の小国亀茲(クチャ)国にうまれた。父はインド人、母は亀茲国王の妹だった。7歳で出家し、9歳でインドに渡り仏教を学び、大乗仏教を修めた傑僧として知られていた。
401年、後秦王によって長安に迎えられてから仏教経典の翻訳を開始、『法華経』『阿弥陀経』などの経典や大乗仏教の理論書の多数を漢訳した。それ以前にも経典の漢訳は行われていたが、鳩摩羅什の訳は正確・流麗であったので中国仏教にとって画期的な事業であった。

初期仏教

仏教の広がり

仏教の広がり
出典:仏教の広がり上座部仏教(小乗仏教)(南伝仏教)→東南アジア
南アジアに存在した諸部派のうち、スリランカを本拠地としてインド本土へ進出した。スリランカ上座部は、紀元前3世紀にインドから上座部系の一部派が伝わったことに始まるとされる。
95%、ラオス 95%、カンボジア 95%、ミャンマー 90%、ベトナム 80%、シンガポール 42,5%が仏教徒です。

大乗仏教(北伝仏教)AD1世紀→中国→朝鮮半島→日本
ガンダーラ(ウマリア朝)で発展し、1世紀~3世紀、今のアフガニスタンのクシャナ朝でも保護のもと、発展しました。そこからシルクロード経由で、中国(長安)、朝鮮半島、日本というように伝わりました。

チベット仏教 AD7世紀
ソンツェン・ガンボ王がはじめてチベットを統一して、吐蕃王朝起こしたと伝えられています。このソンツェン・ガンボ王が、インドの高度な文化を得ようとして大乗仏教を導入しました。
チベット仏教は、根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。また、独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。

主な大乗経典

主な大乗経典

般若経
般若経は、般若波羅蜜(般若波羅蜜多)を説く多数の大乗仏教経典群の総称。般若経には多くの種類があるが,いずれも般若は実体をもたない空なるものであることを明らかにする。紀元前後から約100年間,個々に成立したと考えられ,『般若心経』『金剛般若経』などが、般若経典の代表である。
般若経典は呪術的な面が強く、経自体を受持し読誦することの功徳を説く。
般若心経
唐の玄奘(三蔵法師)がインドから持ち帰った「大般若波羅蜜多経(大般若経)」のうち、さらに大般若経の心髄すなわち空に関する経文のみをまとめたものが般若心経である。般若心経とは、大乗仏教の空・般若思想を説いた経典のことである。
禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗など)及び真言宗においては日常経典として唱えられている。
漢訳として広く知られているものとして、日本で最も一般的な次掲の玄奘訳の他に、それ以前に鳩摩羅什による訳が存在する。
色即是空:形あるものはそのままで実体なきものであり、
空即是色 :実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。

維摩経
維摩経とは、維摩の言葉を物語で綴ったもの。維摩は、商人として多くの財産を築いた富豪でありながら、在家におけるブッダの弟子であり、多くの優れた考えを残す在家仏教信者。病気になった維摩と、彼を見舞った文殊菩薩との対話を通して、「縁起」や「空」など大乗仏教の鍵となる概念をめぐる考察が、まるで現代劇のように展開される。維摩経は、物語形式をとりつつ、その中では優れた考えが多く記されており、聖徳太子が注釈書を書いた事でも有名です。

法華経
法華経は、初期大乗仏教経典の1つである。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。

華厳経
釈尊のお悟りの世界をそのまま描いた経典。漢訳で、80巻。唯識など大乗仏教のすべてを包含している。
時間も空間も超越した絶対的な存在としての仏という存在について説いた経典である。華厳経にも、如来蔵思想につながる発想が展開されている。
陽光である毘盧舎那仏の智彗の光は、すべての衆生を照らして衆生は光に満ち、同時に毘盧舎那仏の宇宙は衆生で満たされている。これを「一即一切・一切即一」とあらわし、「あらゆるものは無縁の関係性(縁)によって成り立っている」ことで、これを法界縁起と呼ぶ。人や物や心や仏や宇宙、すべてが一体となっている。空間だけではなく、時間的にも同様に、過去現在未来が一体となっている。

浄土三部経
『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3つを浄土三部経という。
大無量寿経(大経)
浄土三部経の中心経典。2巻。法蔵菩薩が世自在王仏のもとで願(がん)を立て,それを成就して阿弥陀仏となり,極楽浄土を建設することを説く。
阿弥陀経(小経)
釈迦自ら語り始めた「無問自説の経」。阿弥陀仏の国土である極楽浄土の名をあげてその様子を述べ,阿弥陀仏の説明,念仏による往生,釈尊と諸仏がそれを説明していることを説いて念仏をすすめる。

大般涅槃経(大乗経)
阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
大乗の『涅槃経』 は、初期の『涅槃経』とあらすじは同じだが、「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。

梵網経 ぼんもうきょう(大乗経)
『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』の略。2巻。鳩摩羅什訳と伝えられたが、5世紀ごろ中国での成立とみられる。下巻は十重禁戒・四十八軽戒をあげて大乗戒(菩薩戒)を説き、戒本とされる。最澄がこれに基づいて比叡山に大乗戒壇を建てた。

大日経:『大毘盧遮那成仏神変加持経』(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)(密教)
7-8世紀頃成立したと考えられている密教経典。真言宗の事相と教相に相当する2つの部分から成り立つが、前者である胎蔵曼荼羅の作法や真言、密教の儀式を説く事相の部分が非常に多い。また、この部分の記述は具体的であるが、師匠からの直接の伝法がなければ、真実は理解できないとされている。教相に相当するのは「入真言門住心品」だけといってよい。構成は、毘盧遮那如来と金剛手(秘密派の主たるもの)の対話によって真言門を説き明かしていくという、初期大乗経典のスタイルを踏襲している。
密教
秘密の教えを意味し、大乗仏教の中の秘密教を指す。真言宗において「密教」とは顕教と対比されるところの教「文字によらない教え」を指し、顕教では経典類の文字によって全ての信者に教えが開かれているのに対し密教は、空海の詩文集『性霊集』で「それ曼荼羅の深法、諸仏の秘印は、談説に時あり、流伝は機にとどまる。
真言宗「曼荼羅思想」
仏の知恵を表す「金剛界曼荼羅」慈悲を表す「胎蔵界曼荼羅」があり、たくさんの仏が描かれている。そしてその中心の「大日如来」が根本の仏で、全ての徳を備えた仏。その一つ一つの徳を分担し、姿を変えて救いに現れるのが、阿弥陀で あったり、お不動であったり、観音であったり、すべての仏は大日如来の一つの姿である。さまざまな物事には、すべてに共通する大きな本質がありそれが大きな円の中心で、すべてを丸く包みこんでいるのが大日如来。

中国の仏教

中国への仏教伝来 BC2

紀元前2年後漢の時代に仏教伝来
紀元3世紀仏教経典が伝えられられた(サンスクリット仏典の漢訳が開始された)
中国仏教の発展 AD100
1世紀の後漢時代に中国に浸透し始めた。
はじめは老子や荘子の道家思想と同化して受け入れられたようだが、3~5世紀の西晋・東晋の時代に仏図澄西域から中国に入り、東晋の法顕はグプタ朝時代のインドに赴き『仏国記』を書いた。彼ら、インドとの間の僧侶の交流が盛んとなり、大乗仏教が伝えられた。
鳩摩羅什(350-409年頃)は多くの大乗仏典をもたらし、中国人僧侶とともにその漢訳にあたった。そのため5~6世紀の南北朝時代に、中国の仏教は急速な発展を遂げた。
南北朝の仏教(中国仏教の急速な発展)AD500
5世紀になると、『華厳経』、『法華経』、『涅槃経』などの代表的な大乗仏典が次々と伝来するようになる。また、曇鸞(476年 – 542年)が浄土教を開いた。東アジア特有の開祖仏教はこの時から始まる。
南北両朝における仏教の栄華は、6世紀、北においては六鎮の乱に始まる東西分裂、南では侯景の乱によるあっけない梁の滅亡によって、一転して混乱の極地に陥ることとなる。そして、それを決定づけたのが、北周の武帝の仏教・道教二教の廃毀と、通道観の設置である(三武一宗の廃仏の第2回目)。当時、慧思の「立誓願文」に見られるような、中国で流行し出していた末法思想と相まって、また、学問的な講教中心の当時の仏教に反省を加える契機を与えたものとして、中国仏教の大きな分岐点の一つとなったのが、この2度目の廃仏事件である。
天台大師智顗 AD538‐597
中国,天台宗の開祖。天台大師,智者大師ともいう。陳末隋初唯一の学匠といわれ,天台教学の大成者。 18歳で出家し,天嘉1 (560) 年光州の大蘇山で慧思に学ぶ。光大2 (568) 年以後7年間,金陵 (南京) の瓦官寺で『法華経』や『大智度論』を講義した。太建7 (575) 年以後天台山にこもり天台教学を確立した。陳帝やその後継者に信任が厚く,勅により 10年後には再び金陵に出て,光宅寺で『法華文句』を講義した。陳末の兵乱を廬山に避け,開皇 11 (591) 年晋王楊広 (のちの煬帝) の懇請により王に菩薩戒を授け,王から智者の号を賜わった。のち荊州に玉泉寺を開創して『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』を講義した。この3つの著書は天台三大部といわれる。ほかに『観音玄義』『観音義疏』『金光明玄義』『金光明文句』『観経疏』の天台五小部があり,多くは弟子,章安大師灌頂 (561~632) の筆録による。
隋唐(天台宗、浄土教、密教、禅宗の成立)AD600
次の隋唐時代は歴代の皇帝が仏教を保護のもと、国家統制も加えられ国家との結びつきを深めた。唐の仏教の隆盛は、玄奘や義浄のようにインドに赴いて仏典がもたらされたことにもよるが、むしろ中国仏教が独自に展開したためであり、天台宗、浄土教、密教、禅宗などが成立しのがこの時代である。一方で唐王朝は道教を国教として保護したため、仏教と道教はたびたび対立し、843年の武宗の廃仏によって仏教は打撃を受けた。北魏、北周、唐、次の五代の間の仏教弾圧をあわせて「三武一宗の法難」という。
宋(禅宗、阿弥陀信仰が盛んになる)AD900
10世紀以降の宋代に仏教は復興し、禅宗、浄土宗、密教、天台宗、華厳宗などが再び盛んになった。特に禅宗はめざましく発展し、新興階級である士大夫の支持を受けて他の宗派にかわって仏教の主流となり、12世紀に臨済宗や曹洞宗など多くの宗派に分かれた。禅宗は儒教の宋学の形成にも強い影響を及ぼし、いずれも朝鮮や日本に伝えられ、それぞれの文化形成に大きな存在となった。また、民間では阿弥陀信仰が盛んになり念仏によって極楽浄土に往生するというわかりやすい教えが浸透した。なお宋代には木版印刷が普及して膨大な経典を集大成した「大蔵経」が刊行されている。
AD1200
13世紀に中国を支配した元は、チベット仏教を国教としたが、中国在来の宗教に対しては寛容であった。しかし、異民族支配が続く中、宋代に始まるという阿弥陀信仰の結社である白蓮教が民衆の反モンゴル感情と結びつき、さらに弥勒仏が現れて民衆を救済するという下生信仰が生まれて、元に対する紅巾の乱が起こった。
明・清・明 AD1300
白蓮教は邪教として弾圧されながら存続し、清中期には白蓮教徒の乱を起こす。これらは仏教と道教などの民間信仰が混合したものであり、仏教そのものとしては禅宗と浄土教の融合が進んだが、次第に衰退した。

日本の仏教・仏教伝来

飛鳥仏教

仏教伝来538年(欽明天皇の時代)
中国-南北朝に分かれていた時代
朝鮮-高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた時代
そのうちの百済の聖明王(せいめいおう)から、仏像や経典が贈られた。

物部氏と蘇我氏の権力争いで崇仏派の蘇我氏が勝利したことで、仏教は急速に普及していきます。
聖徳太子は「十七条の憲法」を制定し、その中で仏教を儒教と並んで政治の基本精神に据えました。
聖徳太子は、『法華経』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』の註釈書を書いたとされています。 その中で、聖徳太子は中国の註釈書を踏まえながらも、独自の意見を出すなど、仏教に関する高い知識を示しています。当時の仏教学の水準の高さを示す重要な書物の一つです。

約8470万人の仏教徒(2013年統計)
約7万5000の寺院
現在の日本の仏教徒の大半はいわゆる鎌倉仏教に属している
浄土宗系(浄土真宗)の宗派と日蓮宗系の宗派が特に大きな割合を占めており、大乗仏教が特に多いと言える。

奈良仏教

南都六宗

奈良時代、平城京を中心に栄えた日本仏教の6つの宗派の総称。
奈良時代にはまだ、日本独自の仏教宗派が存在していません。互いに教義を学び合う学派の役割が強く、東大寺を中心に興隆し教学を学び合った。平安以降に成立する宗派との大きな違いは、民衆に向けて説かれた仏教とは違い、信仰や教化を一般に広めることはせず、学問研究を重視しました。
現存するのは、法相宗、華厳宗、律宗の三宗のみです。

■法相宗
638年、唐の玄奘が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説をその弟子の窺基(きき)が大成したもの。「成唯識論」などをよりどころとして一切の存在・事象を五位百法に分類し、すべての実在の根源は阿頼耶識(あらやしき)にあるとする。
日本へは653年道昭により初めて伝えられ、のち、さらに三度伝来された。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。慈恩宗。唯識宗。

■倶舎宗
主として俱舎論によりつつ、存在の本性を明らかにし、四諦(したい)に目覚めて無余涅槃にはいることを説く。中国の真諦しんだい・玄奘げんじようが研究。
日本には、道昭・智通らが玄奘の漢訳を伝え、さらに行基・玄昉らがこれを研究した。独立の宗門となるにいたらず、法相宗に付属された。

■三論宗
インド中観派の龍樹の『中論』『十二門論』、その弟子提婆の『百論』を合わせた「三論」を所依の経典とする論宗。空を唱える事から、空宗とも言う。
日本へは625年吉蔵の弟子,高麗僧慧灌(えかん)が伝え,元興寺で講じた。

■成実宗
『成実論』を研究する論宗(経を所依とせず、論を所依とする宗派)である。412年鳩摩羅什が成実論を漢訳後流布して研究され、梁代に隆盛となった。
日本では、三論宗に附属する宗派。

■華厳宗
華厳経の教説に基づき、中国唐代の僧法蔵が開いた大乗の宗派。華厳教学は天台教学と並ぶ仏教の代表的な思想。
日本には736年に唐僧道璿(どうせんが)伝え、新羅(しらぎ)僧審祥(しんじよう)が東大寺で華厳経を講じ、日本華厳宗の第一祖。東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立された。東大寺を大本山とする。
華厳経の位置づけ:天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(天台大師智顗による)では、華厳経は最初に説かれ、仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。

■律宗
戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。
日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった唐招提寺を総本山。

平安仏教

真言宗、天台宗
力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機である。
桓武天皇・嵯峨天皇は奈良仏教に対抗しうる新しい仏教として、最澄(比叡山・延暦寺)が唐から持ち帰った天台宗や空海(高野山・金剛峯寺)が持ち帰った真言宗を保護した。特徴は一つに山岳仏教の発展である。奈良仏教が都市仏教であったのに対し、最澄は比叡山に延暦寺を、空海は高野山に金剛峯寺を開いた。
もう一つの特徴は加持祈祷を行なう密教を持っていたことである。真言宗の密教は東密、天台宗の密教は台密と呼ばれ覇を競った。これらの特色によって、平安仏教は皇室や貴族の現世利益をかなえる性格が強くあった。
最澄
平安仏教は,現在の宗派仏教の始まり。その礎を築いたのが,伝教大師・最澄(767~822)日本天台宗の開祖。19歳の時,東大寺で具足戒をうけ,官僧となる。3ヶ月後に隠遁してまだ何もない比叡山に入り,一乗止観院(のちの延暦寺)を創建。この山中で,六根(眼耳鼻舌身意)清浄となる(六根相似の位)までは仮 に出て人々に説法することをしない,などの誓願をたてて修行し,以後12年間籠山(山ごもり)を続けた。たゆまない修行と学業をつづけ,その名が知られはじめ,やがて高尾山法華寺の講義などが機縁となり,彼の名声は天皇の耳にも入るようになり,35歳の時,官僧留学生となる。入唐してのち,8ヶ月の間,天台宗をまなび,帰国後日本天台宗を開いた。
空海
最澄と同時代に高野山に真言宗を開いたのが,弘法大師・空海(774~835)15才で上京,18才で官吏となるべく官人としての学問を学んだが,一人の僧と出会い仏教に志す。山林で修行をし,四国の奥深い産地を遍歴し修行を重ね(これが西国八十八カ所めぐりの由来),31歳の時,東大寺で受戒,同年,唐への留学僧に選ばれ,最澄らとともに入唐。長安において密教の巨匠・恵果のもとで,真言密教の秘法を修得。二年後,帰国し,中国密教を伝え,これを体系化。36歳の時に高尾山寺で真言宗(真言密教)を開くことを許される。即身成仏を説き,鎮護国家の呪術をおこない,広く人々を利するべく活動。43歳の時,瞑想の地として高野山を選び,金剛峰寺(こんごうぷじ)をひらき,50歳の時に朝廷から託された東寺(教王護国寺となづける)とともに鎮護国家,真言宗の根本道場とする。

白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。
天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。
聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。
鑑真(がんじん)
奈良時代の帰化僧。日本における律宗の開祖。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。
754年 大宰府に到着、鑑真は大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行い、平城京に到着して聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。

鎌倉仏教

平安時代末期から鎌倉時代にかけて興起した日本仏教の変革の動きを指す。特に浄土思想の普及や禅宗の伝来の影響によって新しく成立した仏教宗派のことを「鎌倉新仏教」と呼称する場合がある。奈良仏教や天台宗・真言宗など旧仏教の復興および改革も盛んで、新たに真言律宗が興っている。これらの新たな動きはそれまでの貴族仏教であったものが新興階級である武士、さらに庶民の信仰する仏教に進化し、日本社会に仏教が深く根を下ろす結果となった。
■浄土宗(法然)阿弥陀仏/念仏
■浄土真宗(親鸞)阿弥陀仏/念仏
■時宗(一遍)阿弥陀仏/念仏
■法華経(法華宗)
■臨済宗(栄西)禅宗系・当時の宋から伝えられた
■曹洞宗(道元)禅宗系・当時の宋から伝えられた

南北朝・室町時代

1333年に鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代から室町時代には政治的中心地は京都に移る。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇により建武の新政が開始されると、五山は鎌倉から京都本位に改められ、京都五山が成立する。足利尊氏が京都に武家政権を成立させると、以前から武士に人気のあった禅宗の五山が定められ、臨済宗は幕府に保護される。室町時代の初期には南禅寺などの禅宗と旧仏教勢力の延暦寺などの天台宗は対立し、初期の幕府において政治問題にもなる。武家と仏教界の接近は貴族文化及び武士文化に影響を及ぼし、義満の時代の鹿苑寺(金閣寺)など北山文化や足利義政時代の慈照寺(銀閣寺)など東山文化に融合の跡を見ることができる。室町時代の文化には仏教に影響された水墨画・書院造・茶の湯・生け花・枯山水の庭園など、後世に残る多くの作品が生まれた。曹洞宗は地方や庶民の間で影響力を持った。京都の都市商工業者の間では日蓮宗が普及した。ちなみに、この時代の布教者としては浄土真宗の蓮如や日蓮宗の日親などが有名である。

戦国時代

応仁の乱後になると、治安の悪化とともに宗教勢力も武力を強めた。法華宗による山科本願寺焼き討ち、天台宗による天文法華の乱など、過激派宗教団体による宗教戦争も起こった。石山本願寺(浄土真宗)などは、さながら大名家のような強固な組織となり、彼らの勢力は守護大名および戦国大名が国を統治する上で何らかの対応策をとることが必須となるほど大きく、大名の多くは妥協の道をとった。しかし尾張の戦国大名・織田信長は、「天下布武」という方針の下、実力対抗してくる宗教勢力を徹底的に討伐した。延暦寺焼き討ち、長島一向一揆、石山合戦などが有名である。また、信長は、日蓮宗の僧と浄土宗の僧との宗論を主催した(安土宗論)。結果、浄土宗が勝利したため、信長は法華宗に他宗派を非難しないよう約束させた。これも宗教勢力を抑えるための策だったとされる。

安土桃山時代

信長が本能寺の変で死ぬと、彼の家臣の豊臣秀吉が実質的な後継者の座についた。秀吉は概ね信長の路線を引き継ぎ、自身に敵対した根来寺や高野山を屈服させた。さらに有力寺社を大坂城の城下町へ引っ越しさせたり、僧兵の影響力が大きかった大和に弟・豊臣秀長を派遣したり、刀狩・惣無事令によって寺院の武装解除を大きく進めるなど、寺社への統制を強めた。寺院の統制と武装解除は続く江戸幕府でも大きな問題として引き継がれていく。

江戸時代

徳川家康は、寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、仏教を取り締まった。さらに人々を必ずいずれかの寺院に登録させるようにし(寺請制度)、布教活動を実質的に封じた。当時最大の仏教勢力であった浄土真宗の本願寺に対しては、お家争いにつけ込んで東西に分裂させ、結果的に勢力を弱体化させることもした。また、1665年に江戸幕府は寛文印知と諸宗寺院法度の制定を行い、仏教寺院に寺領を安堵する一方で更なる統制(檀家制度)を行い、江戸幕府が日蓮の教義を信じない事を理由に従う事を拒絶した日蓮宗の一派(不受不施派)は、禁教令のキリスト教と同様に厳しい弾圧を受けた。

明治時代

江戸時代後半より本居宣長を祖とする国学の延長により明治維新が成し遂げられ、国学的な明治政権が旧長州藩出身者により形成された。そのため、大政奉還により、天皇に政権が返上されると、新政府の神道重視の政策の結果、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数が減少した。1871年(明治4年)に明治政府は太政官達を出し虚無僧が在籍する普化宗を廃止した。また、不受不施派やキリスト教の布教が解禁された。各宗派は仏教の近代化を推し進め、宗門大学の設立等の教育活動、社会福祉活動に進出した。

昭和前期

近代の政府は、神仏判然令以降、太政官布達や断片的な法令、行政上の通達によって宗教を管理してきたが、統一的な法典としては1939年(昭和14年)の宗教団体法が最初であった。国家神道体制が確立する過程で神社は宗教ではないということで公法上の営造物法人として扱われたが、仏教、教派神道、キリスト教の宗教団体は民法の公益法人を適用されないままであった。その後、宗教団体法の制定によって、一般の宗教団体は初めて法人となり、キリスト教も初めて法的地位を得たが、監督・統制色が強い法律であった。

昭和中期・昭和後期から現代(平成期)

第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)12月28日に宗教法人令が制定・施行され、宗教団体への規制が撤廃された。1951年(昭和26年)に宗教法人令が撤廃され、認証制を導入した宗教法人法が制定された。高度経済成長と時を同じくして、日蓮系新宗教の創価学会や法華経系新宗教の立正佼成会などが大きく勢力を伸ばした。1970年代には、精神世界ブームに後押しされ、密教系新宗教である阿含宗や真如苑が伸張した。1980年代後半には、チベット仏教・原始仏教系新宗教であるオウム真理教や独自の仏法真理を説く幸福の科学が注目された。1980年代末期から1990年代中期にかけて、オウム真理教はオウム真理教事件と呼ばれる一連の事件を起こし、これをきっかけにして1995年(平成7年)には宗教法人法が一部改正された。

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